車は遅々として進まなくなった。
渋滞にはまったようだ。
日曜の夕方だ。
やむを得ないかもしれない。
初夏の夕暮れの光がビルのガラス窓に反射し、ハンドルを握る凜子の目に、時折刺ささる。
不意に、カーラジオから曲が流れ始めた。
低音の女性シンガーだ。
それでもいい……
それでもいいと思える恋だった
戻れないと知ってても
つながっていたくて……
「私、この曲好きだわ……」
助手席に乗っていた結衣がつぶやいた。
私も……と、凜子は言おうとしたが、思いとどまった。
思い出したのだ。
一週間前だ。
凜子は友和から突然別れを切り出された。
ホテルでの逢瀬のあとに。
友和は言いづらそうに口を開いた。
「凜子……ごめん……実は……うちのが妊娠したんだ……」
「え、いつ? なんで?」
凜子はその言葉が、間髪を入れず口をついて出たことに、自分でも驚いた。
でもその質問に答えて欲しくないことは、分かっていた。
多分、友和も答えたくないだろう。
しかし、友和の返答は、それ以上に衝撃的なものだった。
「実は……もう……臨月なんだ……」
初めてこんな気持ちになった
たまにしか会う事出來なくなって
口約束は当たり前
それでもいいから……
凜子は友和に問い詰めた。
「え、そんな……なんで……もうしてないって言ってたよね……」
答えて欲しくない質問だが、抑え切れず口から出てしまう。
「ごめん……酔って帰ったときだと思う……でも、よく覚えてないんだ……」
「いやっ! そんなこと! なんで? ねえ、なんで?」
友和は後ろを向いて服を着始めた。
「ごめん……もう、会えないかもしれない……うちもいろいろ大変になってきたんだ……」
叶いもしないこの願い
あなたがまた私を好きになる
そんな儚い 私の願い
今日もあなたに会いたい
それでもいい それでもいいと思えた恋だった
いつしかあなたは会う事さえ拒んできて
凜子は友和の背中にすがった。
「それでもいい」と。
「私は構わない、いままで通り会って」と。
「ごめん……多分……無理だよ……」
友和は後ろ向きのまま答えた。
あの日から友和からの連絡はなくなった。
友和とは3年の付き合いだった。
妻子のある身とは知っていた。
別れてとは言わなかったが、儚い望みは抱いていた。
いつか、いつか、いつも一緒にいられるようになると……。
「凜子さん、前……」
助手席からの声に我に返った。
気が付くと、前の車は15メートルくらい進んでいた。
「あ、ごめんなさい……」
慌てて車を発進させた。
凜子は、助手席の結衣を気遣うように言った。
「結衣さん、ごめんなさい、混んでるみたい……時間、大丈夫?」
「ううん、全然……気にしないで、凜子さん、私、今は仕事休んでるし、時間はいっぱいあるから……」
結衣の語尾には苦笑いが含まれている。
結衣を見るのは半年振りだ。
正確な歳は知らない。
32歳の自分より、いくらか若いだろう。
前より髪を短くし、化粧っ気のない顔は、少しふっくらとして顔の色つやも良い。
結衣とは、月2回通ってるフラダンス教室での知り合だった。
教室の帰りにお茶を2、3度一緒に飲んだこともあった。
ただそれだけの仲だ。
1時間前だ。
その結衣とばったり出会ったのだ。
凜子がよく行くデパートの地下にある輸入食品売り場でだった。
大きいお腹をして、その両手には買い物袋をぶら下げていた。
結衣がフラダンス教室に来なくなった理由がわかった。
妊娠していたのだ。
お互い気づき、短い挨拶のあと、コーヒーショップで休憩をした。
聞くと、電車とバスを乗り継いで来た言う。
凜子は車で来ていた。
「うちはどこなの?」と訊いた。
結衣の家は、よく知った場所で、凜子も車でも何度も行ったことがあるところだ。
凜子は彼女の様子を見かねて「だったら帰りは送って行くわ」と結衣に提案した。
助手席の彼女を見た。
彼女は大きなお腹を両手で支え、そこを大事そうに撫でていた。
幸せそうに見えた……。
結衣が顔を上げる。
「凜子さん、道わかる?」
「うん、大丈夫、そこならよく行くから……」
そう、良く知っている場所だ……。
そう、彼の……。
ん? なんだろう?
なにかが引っかかった。
いやな感じの、なにかだ。
「あれ、結衣さん……結衣さんの苗字ってなんでしたっけ?」
なんだろう?
この胸騒ぎは?
「鈴木です」
「あ、そうだ、鈴木さんだ、ごめん、ごめん……」
鼓動が早くなった。
え、まさか、そんなこと……。
ありふれた苗字だったから、今の今まで気にも留めてなかった。
でも同じ苗字だ。
そして、今向かっているのは彼が住んでいる町だ。
うそ……うそよ……。
「結衣さん、予定日はいつ?」
凜子は平静を装って訊いた。
「実は今月の15日なの……」
彼女の顔に、はにかんだ、それでいて誇らしそうな笑顔が浮かんだ。
心臓が激しく鳴り、逆に体から力が抜けそうになった。
凜子は体を支えるようにハンドルを強く握り締めた。
そんな……。
彼女だ。
彼女だったんだ……。
凜子は唇を噛みしめた。
なんで神様はこんな皮肉な悪戯をするのだろう……?
彼の言葉で打ちひしがれた私に、尚も鞭打つのか……?
なぜ……?
どうして……?
恐いくらい覚えているの
あなたの匂いや しぐさや 全てを
おかしいでしょう?
そう言って笑ってよ
凜子は結衣の手を見た。
自分よ小さい手、指をしていた。
左手の薬指に、細い銀色のリングが見えた。
この手は……。
この手は……彼の体に触れ、なぞり、あの熱くたくましいものを握りしめたのだろうか……。
していないと思いたかった。
結衣の唇を見た。
厚くふっくらとして、まだ口角が上がっている。
若い、と思った。
この唇は彼の唇に触れ、体に吸いつき、そして彼のを奥まで飲み込んだのだろうか?
「うちのは、しないんだ……凜子だけだよ……」
友和そう言った。
その言葉を信じたかった。
友和のを含んだ時の感触を思い出した。
あの、口いっぱいの彼の感触を……。
愛おしい彼のもの……。
あれは自分だけのものだ。
唾をごくりと飲み込んだ。
結衣の大きく膨らんだ下腹部を見た。
でも、彼のものは、彼女の中に入ったのだ。
それは間違いなかった。
疑いようはなかった。
自分の奥深くまで入ったものと同じものが、彼女の奥深くまで入ったのだ。
凜子は自分の中に入った友和の感覚を思い出した。
自分の中を一杯にし、あの激しく動くさまを。
そして、最後に私を強く抱きしめ、放つのだ。
何度も何度も力強く、脈打ちながら……。
恋がこんなに苦しいなんて
恋がこんなに悲しいなんて
思わなかったの
本気であなたを思って知った
でも、友和は自分にはいつもコンドームを付けて果てた。
でも、彼女には直に放ったのだ。
私の中には絶対くれなかったものを、彼女の奥深くで放った……。
それは間違いなかった。
自分よりも奥に、さらに奥の奥に、そこに彼のものが入り込んだのだ。
そして、彼女の体に深く染み込んでいった。
ああ、彼のあのときの苦痛にも似た顔を、彼女も見ているのだろうか……?
凜子は目をつむりそうになるのを、こらえた。
「大丈夫? 凜子さん……なんか顔色悪いわよ……」
「うん……大丈夫……ちょっと暑くなってきたみたい……エアコン入れていい……?」
「う、うん……」
結衣はあいまいな返事をし、お腹をかばうように両手をそこに当てた。
エアコンのスイッチに手を伸ばした。
あなたは私の中の
忘れられぬ人
全て捧げた人
もう二度と戻れなくても
今はただあなた……あなたの事だけで
あなたの事ばかり
曲が終わった。
いつか、こんな歌詞のことが起こらないことを祈りながらも、一途な悲劇のヒロインの気持ちが心に響き、口ずさんでしまう曲だった。
でも、今、その歌詞が現実のものとなった。
そのときだった。
結衣がお腹をさすりながら、またつぶやいた。
「こんなに男の人に一途なひとっているのかしら……? でも……私も一度でいいから、こんな激しい一途な恋をしてみたいわ……」
凜子はハンドルを手が白くなるほど握りしめた。
「あ、そうだ、凜子さん、これから時間ある?」
思い出したように結衣が言った。
「ん? なんで?」
前を向いたまま答えた。
「良かったら、うちでお茶でもどう?」
「え……?」
「うちのひとね、今日はゴルフなの、夕方には帰ってくるわ、凜子さんこんなにしてもらって、うちの人からもお礼を言ってもらわないと……こんな私をほっといてゴルフなんですもの」
「ま、ひどいわね……」
「そうでしょう? 二人でとっちめましょう?」
凜子は結衣の方を見た。
無邪気な笑顔だった。
凜子は前を見た。
車がスムーズに流れ出した。
渋滞を抜けたようだった。
「そうね……いいわ、これも何かの縁だから……」
凜子はアクセルを踏み込んだ。
完
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